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NPO 家族葬の会 TOPコラム目次>死に様・生き様:円谷幸吉

この「生き様・死に様」では、みなさんが良くご存知の人物(中にはそれほど有名ではない人物もありますが)の人生の一部を描いています。時にはやや皮肉っぽくお感じになるかもしれませんが、決してそれを意図しているわけではありません。またもちろん、ここでの人物像の描写が、その人たちの業績をいささかも損じるものではない事も申し添えます。

死に様・生き様:円谷幸吉

円谷幸吉〜(1)略歴〜

・昭和15年5月13日福島県須賀川町にて7人兄弟の末っ子として誕生。
父幸七、母ミツ。
・昭和20年関節炎に罹る。やや体を右へ傾けた円谷の走りはこの影響か。
・昭和31年須賀川高校入学。陸上競技を始める。
・昭和34年陸上自衛隊入隊。
この年の秋、重要な練習パートナー斎藤勲司と出会う。
・昭和37年自衛隊体育学校入学。
教官畠野洋夫と出会い、以後の苦楽を共にする。
・昭和38年3月20日マラソン初体験となる中日マラソンで5位。
・昭和38年4月12日毎日マラソンで君原についで2位。
東京オリンピックマラソン代表に君原らとともに選出される。
・昭和39年10月21日東京オリンピックマラソンでアベベの3位。
・昭和43年1月9日右頚動脈をかみそりで切って自殺。享年28歳。

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円谷幸吉〜(2)自殺〜

昭和39年、東京オリンピックで円谷幸吉は、銅メダルを獲得しました。
このときアベベについで幸吉は2番目に国立競技場のトラックにはいります。しかし、かつて父から「決して後ろを振り返るな」と叱られたことがあった幸吉は、最後まで後ろを振り返らずに走り、トラックでヒートリーに抜かれます。彼は、最後にヒートリーを抜き返せなかったことを悔やみ、次のメキシコオリンピックに向けて練習を開始しますが、コーチの転勤や故障、手術などが重なり思うようにいきません。オリンピック前年には、周囲の人たちは幸吉のオリンピック出場を絶望視していましたが、本人はまだ希望を棄てていなかったようです。

そして、オリンピック開催の年である昭和43年1月9日、わずか28歳の幸吉は自殺をしました。かみそりで右頚動脈を切った幸吉のベッドは、血の海だったそうです。

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円谷幸吉〜(3)自殺の原因〜

幸吉の自殺は、「人間性を無視した期待」、「国民的期待感の重圧に耐えかねて」、「五輪至上主義への警鐘」という論調でマスコミによって伝えられました。「円谷は日本人の愛国心に殺された」としたスポーツ評論家の川本信正がそれらを代表しています。

しかし、関係者は少し違います。幸吉の直接の上司であった自衛隊体育学校の高長課長は、「ノイローゼになり発作的に自殺したのではないか」と語りました。また、東京オリンピックの陸上競技の監督であった織田幹雄は、「なぜ競技者としての生命を失っただけで死を考えなければならなかったのだろうか。まじめ一方の円谷君の気持ちがここまで追いやったとしか思えない」と他人事に近い感想を朝日新聞に、同じくコーチだった村社講平は、「円谷君が自分の後継者を輩出させえなかった悩みが今回の自殺につながることはわかる」と、何を考えたか見当違いの追悼文を毎日新聞に寄せています。

これらに対し、作家三島由紀夫は、『円谷二尉の自刃』という追悼文で、「それは傷つきやすい、雄雄しい、美しい自尊心による自殺」であり、この「この崇高な死をノイローゼなどという言葉で片付けたり、敗北と規定したりする、生きている人間の思い上がりの醜さは許しがたい」と怒りをあらわにしました。

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円谷幸吉〜(4)遺書〜

幸吉は2通の遺書を残しました。そのうちの1通、家族にあてた遺書には、私たちが知るべき彼の人生の全てが表れているようでした。

「父上様、母上様、三日とろろ(註)美味しゅうございました。
敏雄兄、姉上様、おすし美味しゅうございました。
克美兄、姉上様、ブドウ酒とリンゴ美味しゅうございました。
巌兄、姉上様、しそめし、南ばん漬け美味しゅうございました。
喜久造兄、姉上様、ブドウ液、養命酒美味しゅうございました。
又、いつも洗濯ありがとうございました。
幸造兄、姉上様、往復車に便乗させて戴き有難うございました。
モンゴいか美味しゅうございました。
正男兄、姉上様、お気を煩わして大変申しわけありませんでした。

(中略)

父上様、母上様、幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません、何卒お許しください。気が安まることもなく御苦労、ご心配をお掛け致し申しわけありません。
幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました。」

(註:彼のふるさと福島県須加川で1月3日に食する習慣がある。)

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円谷幸吉〜(5)作家たちの反応〜

幸吉の自殺はその遺書によって、より深い印象を人々に与えました。むしろ、幸吉の遺書は自殺そのものより印象深かったと言い換えてもいいかもしれません。幸吉の遺書は、単純そうに見える文章によって、まことに驚くべきものを人に伝えています。その点で、多くの作家たちが述べた感想はまことに興味深いものでした。

川端康成は、『円谷幸吉選手の遺書』において、「繰り返される《おいしゅうございました》といふ、ありきたりの言葉が、じつに純ないのちを生きてゐる。そして、遺書全文の韻律をなしてゐる。美しくて、まことで、悲しいひびきだ」と語りました。さらに「ひとえに率直で清らかである。おのれの文章をかへりみ、恥ぢ、いたむのは勿論ながら、それから(川端)自身を問責し絶望する」、そして「売文家の私はここ(幸吉の遺書)に文章の真実と可能性を見えたことはまことであった」と文豪川端康成を感嘆させました。

文章力というものが訓練によって身につくものだとすれば、幸吉のこの文章の力を説明することは出来ません。独特の生い立ちや生活環境が、彼にしか持てない表現力を身につけさせたとしか思えません。

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円谷幸吉〜(6)作家たちの反応・その2〜

野坂昭如は、「何というすさまじい呪いであるかと受け取った。・・・いわれなき重圧を背負わされ、疲れはてたあげくの、悲鳴といえばいいのか。《ありがとうございました》《美味しゅうございました》のくどくどしいくりかえしが、生者調伏(生きている者を呪い殺す)の呪文のごとき印象」を与えると語りました。

沢木幸太郎は『長距離ランナーの遺言』において、「円谷の遺書には、幼いころ聞いたまじないや(不気味な)呪文のような響きがある。農村の奥深く眠っている土俗の魂が秘められているように思える」と書き、日本を代表する前衛的戯作者・唐十郎の『腰巻お仙-振袖火事の巻』をとりあげます。

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円谷幸吉〜(7)作家たちの反応・その3〜

芝居『腰巻お仙-振袖火事の巻』の主人公は唐十郎自身が演じましたが、その名は円谷幸吉の姓と耳なし芳一の名をつなぎ合わせた「円谷芳一」です。そして、経文を体中に書きつけて身を守った『耳なし芳一』に倣(なら)って、「円谷芳一」の体に「一族血縁の文」と唐が呼んだ幸吉の遺書を書きつけさせます。ここで唐は、円谷芳一を守る幸吉の遺書が、呪文のような「一族血縁=古い日本的な紐帯(ちゅうたい)」の底知れぬ不気味さを表現していると感じているかのようです。唐は、戦後の日本を覆いつくした西洋的合理主義の底に、したたかに生き残っている古い日本の情念を見たのでしょうか。

饒舌を避け食べ物に対する礼だけを言うことが生涯の全てに対する礼であることを雄弁に語っていること、単純な言葉の繰り返しによる表現によってそのことが際立たせられていること、そしてこれらが『日本的なもの』の規範に従っていることを、この遺書は人々につよく印象づけます。

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