NPO 家族葬の会 TOP>コラム目次>死に様・生き様:太宰治 この「生き様・死に様」では、みなさんが良くご存知の人物(中にはそれほど有名ではない人物もありますが)の人生の一部を描いています。時にはやや皮肉っぽくお感じになるかもしれませんが、決してそれを意図しているわけではありません。またもちろん、ここでの人物像の描写が、その人たちの業績をいささかも損じるものではない事も申し添えます。 死に様・生き様:太宰治 太宰治〜(1)略歴〜
・明治42年6月19日青森県北津軽郡金木村に生まれる。本名津島修治。 太宰治〜(2)入水心中〜 喀血を繰り返し体調が悪化していた太宰治は、昭和23年6月13日深夜、愛人山崎富栄とともに玉川上水に入水自殺しました。太宰38歳、富栄は28歳でした。当時の玉川上水は、いまでは想像も出来ませんが、川幅12メートル、深さ2メートルの急流で、「落ちると死体もあがらぬ魔の淵」だといわれていました。6日後、1.5キロ下流で、紐で結び付けられた2人の遺体が発見されました。 太宰はそれまでに4度自殺を試みていますが、2度目と4度目そして成功した(?)5度目は、いずれも心中でした。 21歳のとき江ノ島で田部シメ子(17歳)と最初の心中を図ります。このとき太宰は、後に心中未遂をする小山初代と内縁とはいえ結婚4日目のことでした。2人は睡眠薬を飲みますが、シメ子だけが死にます。次は28歳のとき水上で、小山初代とやはり睡眠薬による自殺未遂でした。 4度の自殺未遂は、いずれも太宰の作品になります。 太宰治〜(3)出会い〜 友人の紹介で始めてあってから1ヶ月あまり後の昭和21年5月3日太宰は、「死ぬ気で恋愛してみないか」と、奥さんに悪いとためらう富栄に関係を迫りました。 この日の富栄の日記。 富栄は太宰の自分に対する愛に偽りがあることに気づきながらも、太宰との愛にのめりこんでいきます。 太宰治〜(4)『斜陽』〜 じつは太宰は、富栄とはじめて会う直前に、太田静子という4歳年下の女性から、妊娠を告げられていました。 昭和16年教えを乞う手紙を太宰に送った太田静子は、太宰にすすめられて大学ノート4冊分の日記を書きました。後に太宰は、この静子の日記をもとに書いた小説『斜陽』で、文壇での地位を不動のものにすることになります。 昭和22年1月太宰は、3年ぶりに会った静子からその日記を借り受けようとします。「1万円上げるから日記を見せてくれないか。」「下曽我(伊豆の静子の疎開先)に来て下さったら、日記はお見せします。」翌月下曽我を訪れた太宰は、日記を借りるために5日間逗留し(静子を妊娠させ)、奪うように借りた日記を持ってそのまま美津浜の旅館にこもり、『斜陽』の1、2章を書き上げます。 3月、妊娠した静子がそのことを告げに太宰を訪れますが、太宰は冷たく追い返し、その後二度と会うことはありませんでした。後に静子は、著書『あはれわが歌』の中で「この人(太宰)がほしかったのは、日記だけだったのだ」と主人公に語らせています。 女遊びを責められた芸人が「女あそびは芸の肥やしだ」と開き直ったという話を聞いた事がありますが、太宰にとって女は芸そのものであったかのようです。 太宰治〜(5)桜桃忌〜 玉川上水から引き上げられた太宰と富栄の遺体は、出版社の人たちによって、人目を避けて結んだ紐を切り離され、別々の場所で荼毘に付されました。 また、「骨の一部でもいいから一緒に埋めてほしい」という富栄の願いもかなえられませんでした。太宰の遺骨は望んだとおり、三鷹市禅林寺の森林太郎(鴎外)の墓に向かいあって葬られました。 毎年6月19日の太宰の命日「桜桃忌」には、大勢の女性太宰ファンが花束を持って、おまいりにやってきます。 「死ぬ気で恋愛してみないか」とじっと目を見つめながら迫った太宰の言葉の魅力は、今でも多くの女性を捉えて離さないようです。 |
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