NPO 家族葬の会 TOP>コラム目次>死に様・生き様:徳川家康 この「生き様・死に様」では、みなさんが良くご存知の人物(中にはそれほど有名ではない人物もありますが)の人生の一部を描いています。時にはやや皮肉っぽくお感じになるかもしれませんが、決してそれを意図しているわけではありません。またもちろん、ここでの人物像の描写が、その人たちの業績をいささかも損じるものではない事も申し添えます。 死に様・生き様:徳川家康 徳川家康〜(1)略歴〜
・1542年12月26日 三河国岡崎城内で誕生。父、松平広忠。母、於大。 徳川家康〜(2)発病と権謀(けんぼう)〜 1616年1月、75歳の家康は鷹狩に出かけた先で、夕食に大量の魚の揚げ物をたべ、そのあと激しい下痢に見舞われます。通説ではこの食中毒が死の原因だということになっていますが、すでに腹中に固まり(胃がん)があるという医師の報告がありましたから、食事がそれを刺激した可能性があります。いずれにせよ、このときの症状はいったん回復します。 家康は自分の発病さえ政略に利用しました。病床に福島正則を呼び、正則の忠誠心を試すため、「その方、もし不足あらば、帰国のうえ謀反を企てようとも、いかようにもするが良いぞ」と言って、その反応を窺(うかが)います。 家康の権謀は広く知られていました。家康倒れるの報を聞いて、東インド会社平戸商館長リチャード・コックスは、「これは諸人の動静を察するために、故意に流したものに違いない。家康は狡猾の人である」と日記に書いています。 もちろん、子供のころから苦労に苦労を重ねようやく権力を手にし、徳川家安泰のために腐心してきた家康にしてみれば、この程度のことは当たり前でした。 徳川家康〜(3)病気と薬〜 家康を死に至らしめた病は、梅毒による胃癌だと医学博士大坪雄三は残された資料から診断します。 16世紀初頭、日本に渡ってきた梅毒はすぐに全国に広がり、猛威を振るいます。鷹狩に出かけた先などでの女遊びの激しかった家康に、最初に梅毒の症状が出たのが44歳のときです。天下を取ったあとの60歳のころに、いずれも知恵遅れであった松千代と仙千代を相次いで失います。 このころにはすでに、家康は自分の病気のことを知っていたようです。薬の研究家として知られる家康の納戸には、おびただしい種類の薬に混じって、梅毒の治療薬として知られていた大量の水銀がありました。 さらに、次男秀康と四男忠吉の(自分が原因の)梅毒による凄惨(せいさん)な死が、66歳の家康をさらに薬の研究に駆り立てます。晩年家康は、砒素(ひそ)や水銀などの劇薬を原料として、万病円と銀液丹という梅毒の薬を開発しこれを常用します。さらに、これらの薬が効かなくなると、ついには生(なま)の銀(梅毒の特効薬として知られていた)を服用するようにすらなります。 徳川家康〜(4)死亡と遺言〜 鷹狩での発病からほぼ3ヶ月間、病状は一進一退を繰り返していましたが、ついに4月17日家康は駿府城中で死去しました。 4月2日に家康は、「遺体は久能山へ埋葬、葬儀は増上寺で、位牌は三河大樹寺に立て、一周忌が過ぎたら日光に小堂を建て関東八州の鎮守とするよう」遺言します。 秀忠は、家康が生きている間はその一言一句に一切逆らうことが出来なかったのですが、死んでしまえばもう怖くはありません。自らの政権安定のため家康の神格化を図り、家康の遺言のほとんどを無視します。 遺体はその夜のうちに降り続く雨のなか久能山に送られ、葬儀はその場でしかも神道の形式にのっとって、(天皇に習って)夜儀で行われました。増上寺には葬儀ではなく中陰(49日までの間)の法要を行うよう命じました。当初予定されていた『大明神』という諡号(しごう)は秀吉と同じであるという理由で、天台宗の僧天海の進言により『大権現』に変更されました。 1年後、日光に東照宮が立てられ、金の輿(こし)に乗った遺骸と神体は1300人を超える行列を従え久能山から日光へと遷座(せんざ)しました。これもまた家康の遺言にはなかったことです。 |
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